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箕子(きし、生没年不詳)

箕子(きし、生没年不詳)は中国殷王朝の政治家。文丁の子で帝乙の弟。帝辛(紂王)の叔父にあたる。箕の国に封じられたので箕子と呼ばれる。名は胥余。

箕の国は当時の殷の最北端にあたり、北方の異民族(土方、鬼方など)の力が強い地域であったが、箕子は良く治めてこれらを畏服させることに成功した。その功績を認められて中央に戻ると帝乙や帝辛に仕えた。 箕子は農事・商業・礼法などに通じ、箕子が政治を執っているあいだ殷は大いに栄えた。

あるとき箕子は帝辛が象牙の箸を作ったと聞き、「象牙の箸を使うなら陶器の器では満足できず、玉の器を作る事になるだろう。玉の器に盛る料理が粗末では満足できず、山海の珍味を乗せる事になるだろう。このように贅沢が止められなくなってしまうに違いない。」と危惧し、贅沢をやめるように諫言した。

のちに帝辛が暴君化すると、比干とともに帝辛を何度も諫めるが、聞き入れられないと分かると殷の行く末を憂えるあまり発狂したため、帝辛によって幽閉された。

のちに武王が殷を倒すと箕子を招聘して政治について問い、そのあまりの該博さに驚嘆したという。

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こののち箕子は周を逃れて北方に亡命するが、一説には朝鮮半島に逃れて箕子朝鮮を立国したともいわれる。

宮城谷昌光は殷の宰相・商容と箕子が同一人物であり、名の胥余が同音の商容と表記された可能性を指摘している。

箕子は周に参朝し、商の廃墟をよぎった。箕子は破壊された宮殿跡に麦が生い茂っているのを見て悲しみ、感傷に堪えず号泣しようとしたが、周への気兼ねがあるので、麦秋の詩を作って詠歌した。

麦秋の詩「麦の穂秀でて漸々たり 禾黍の葉光て油々たり。かの狡童(受辛) われと好からず」

(原文:麥秀歌「麥秀漸漸兮、禾黍油油。彼狡僮兮、不與我好兮。」)

商の民はこの詩を聞いて、みな涙を流した。ここから亡国の嘆きを麦秋の嘆と呼ぶようになった。

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2009年04月30日 09:22に投稿されたエントリーのページです。

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